HOME > 大塚 直吉
プロフィール
大塚 直吉さんは、看板づくりや上杉謙信の居城・春日山城をはじめ、その支城・山城の鳥瞰図(ちょうかんず)制作をライフワークとしていた。
子供のころから絵を描くことが好きで、掛け軸に涅槃(ねはん)図を描いたこともあり、東京美大の教授らに洋画、日本画を学んで画家を志すも、戦後の混乱の中で生活を優先させ、絵看板の仕事を懸命にこなした。文字は自身で覚え、筆文字が得意だった。映画が全盛だったことから映画館に住み込みで働き、新作の上映があるたびに映画の1シーンを描いたインパクトのある看板を仕上げ話題になった。昭和30年代後半に開かれた国体の冬季大会では、ジャンプ場の看板や駅前の歓迎アーチを手がけた。
昭和53年には卓越した技術が認められ、県知事賞に輝き、同55年には黄綬褒章を受章している。
産業分類 | 生活密着型技術 |
---|---|
認定年度(平成) | 平成9年 |
マイスターの分野 | 広告美術 |
氏名 | 大塚 直吉 |
ふりがな | おおつか なおきち |
性別 | 男 |
生年月日 | 大正8年12月9日(平成10年11月 78歳で他界) |
住所 | 上越市本町2丁目 |
作品
春日山城跡
鳥瞰図に取り組むきっかけになったのは昭和44年放送のNHK大河ドラマ「天と地と」だった。これを見ているうちに自分の持っている技術を生かし、郷土の英雄で戦国時代の名だたる武将・上杉謙信公を後世に伝えたいと春日山城とその支城を描き始めた。一つの山城を描くために3、4回は険しい山に登り丹念に現地調査を繰り返していた。 柿崎町 猿毛城跡
山に登る季節は春先と晩秋。地形や遺構をしっかりと見定めるには芽吹きの前と木々の葉が枯れ落ちた後が最良だったからだ。手にはいつも、大塚さんを応援した一人・植木宏さん(上越市文化財調査審議会委員長)が調査した支城群(約160個所)の地図を持っていた。 高田城絵図
大塚さんの後を継ぎ工芸社の社長をつとめる二男の登さん(54)は「仕事抜きでやっていましたし、絵に関してはポリシーを持ち勢いがありました」と父親を尊敬する。 他界して2年後の平成12年には、山登りを共にした永見完治さん(同市観光案内協会長)らが中心になって、大塚さんが完成させた春日山城はじめ52の絵図を収録した作品集が発行された。
鳥瞰図に取り組むきっかけになったのは昭和44年放送のNHK大河ドラマ「天と地と」だった。これを見ているうちに自分の持っている技術を生かし、郷土の英雄で戦国時代の名だたる武将・上杉謙信公を後世に伝えたいと春日山城とその支城を描き始めた。一つの山城を描くために3、4回は険しい山に登り丹念に現地調査を繰り返していた。 柿崎町 猿毛城跡
山に登る季節は春先と晩秋。地形や遺構をしっかりと見定めるには芽吹きの前と木々の葉が枯れ落ちた後が最良だったからだ。手にはいつも、大塚さんを応援した一人・植木宏さん(上越市文化財調査審議会委員長)が調査した支城群(約160個所)の地図を持っていた。 高田城絵図
大塚さんの後を継ぎ工芸社の社長をつとめる二男の登さん(54)は「仕事抜きでやっていましたし、絵に関してはポリシーを持ち勢いがありました」と父親を尊敬する。 他界して2年後の平成12年には、山登りを共にした永見完治さん(同市観光案内協会長)らが中心になって、大塚さんが完成させた春日山城はじめ52の絵図を収録した作品集が発行された。